引退馬支援
について

馬好き予備軍

「馬がこんなに可愛い生き物だなんて思ってなかったの」

その女性は、気持ちよさそうに目を細める青鹿毛の雄馬の首を撫でながら、照れ臭そうに笑った。 毎日青鹿毛の彼の世話をしている彼女は、青鹿毛の彼と会うまでは馬に触れたこともなかったという。

この街の閑静な住宅街の一角、鉄の柵で囲われた簡素な馬場には、青鹿毛の雄馬が暮らしている。 彼は、彼女を始めとする街の人たちに大切に育てられている”まちうま”だ。

彼の馬場の周りにはいつも、彼に会いに来た街の人がいて、話に花を咲かせている。そんな街の人たちを、青鹿毛の彼は、ツヤツヤの毛並みと疑いのない真っ直ぐな目で見つめている。

青鹿毛の彼は”まちうま”として、彼に会う為に集う街の人の、ゆるいコミュニティの中心としてそこにいる。

そして彼女は、ひょんな事からこの”まちうま”の世話をする様になり、もう何年も世話をしているという。

「馬には不思議な魅力があって、惚れ込んでしまったの。それでいつのまにか、毎日来て世話をする様になっていて。」

今ではすっかり馬好きになった彼女はそう言う。私の周りの、多くの馬好きと同じく、馬が持つ不思議な魅力にやられたという。 馬以外のコミュニティで、馬好きと出会うことはなかなか難しい。そんな中で偶然出会った彼女は私にとって、やっとできた大切な馬ともだ。

彼女とは、馬の可愛さについて日が暮れるまでたくさん話をした。

ある日、青鹿毛の彼と彼女に会いに馬場へ向かうと、彼女が今にも泣きそうな顔で言った。

「引退馬って、なんでこんなに生きにくいんでしょう」

やはり、馬を好きになり、色々な事を知っていくと、皆最終的にはこの問題にたどり着くようだ。皆が知っていて、皆が何とかしようと模索していて、でもまだ解決に向かう途中の、引退馬の問題。

やるせない、と彼女は言った。 こんなに可愛い馬たちが、走るという役目を終えた途端に働き口がなくなり、多くの馬がそこで人生を終えることがとてもとても悲しいと。一方で、では自分に何ができるかと考えると、それもわからないと。

実際に、見様見真似で馬の世話を始め、何年もやってきた彼女は、馬を生かす為に多くのお金、場所、人手が必要だと分かっている。そんな彼女だからこそ言葉が見つからず、絞り出した「やるせない」だったのだと思う。 馬を生かすことの大変さが分かるからこそ、誰を責めることもせず、かと言って有効な手段も思いつかず、ただ事実を受け止めているようだった。

長く幸せに生きる引退馬を少しでも増やす為に、様々な人が様々な活動をしているし、新しい取り組みもどんどん生まれている。しかし、この素晴らしい取り組みを、今馬を好きな人たちだけで完結させていいのだろうか。

“まちうま”と出会う前の彼女のように、「馬好きになる素質」を持ちつつも、馬と関わった経験が少ない為に、馬の不思議な魅力に気づいていない人、馬好きになっていない人は、世の中にどれくらいいるのだろう。

引退馬にまつわる様々な取り組みに、彼ら彼女らを引き込むことが出来たら、取り組みはもっと加速度を増すのではないか、と思わずにはいられなかった。

好きな人が出来て、その人の驚くべき事実を知った時の「あなたの力になりたい」の威力がとてつもない事は、恋をしたことがある人ならきっと分かるはず。馬好き予備軍の彼ら彼女らを、なんとか馬と恋に落ちさせたい。彼女との一連のやり取りの後、私はそんなことを考えていた。

あるいは、こんな言い方も出来るかもしれない。

「馬の魅力を、もっともっと沢山の人に知って欲しい。この可愛さを共有したい。」

この気持ちは、今これを読み進めているあなたならきっと分かるのではないだろうか。自分の大好きな馬という存在の素晴らしさを、自分の大切な人にも知ってほしい。この素敵な馬という生き物とのふれあい方を、もっと多くの人に伝えたい。

馬と出会い、何かしらの感情と出会った馬好き予備軍が、次に踏み出す一歩の選択肢を一つでも多く持ち、またそれに対しより抵抗なく踏み出せる世の中になるように祈ってやまない。 そして、まずは私と関わる馬好き予備軍を、精一杯エスコートしていこうと誓った。

ちなみに彼女は先日、パートナーと一緒に初めての体験乗馬に行ったそうだ。彼女のパートナーも又、彼女の影響で青鹿毛の彼の世話を手伝うようになり、いつのまにか夫婦で馬好きになってしまったらしい。

個人的には、初めて馬に乗る人に、馬に乗ることの魅力を伝える1番の方法は外乗りのトレッキングだと思っているので、次はぜひ一緒にトレッキングを、と誘っている。 私の別の友人でも、私と一緒に体験した旅先でのトレッキングを通じて馬を好きになり、トレッキングをしに旅行をするようになった人がいる。(コロナ禍以前の話)

こうやって、自分に近い人が馬を愛で、馬ともっと仲良くなりたいと思ってくれることは、ひとりの馬好きとしてはとても嬉しい。全くもって微力ではあるが「馬好き予備軍を馬と引き合わせること」「馬好きに、もっと馬を好きになってもらうこと」は、コツコツと続けていきたいと思っている。

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